■深い心の傷
大正13年、川端26歳のとき、文藝春秋に『非常』を発表している。
 昭和9年の『文学的自叙伝』には、「いったい私は後悔というものをしない。もしあの時ああでなかったら、こうであろうという風に、過去を思い出すこともない。だから、二十三と十六で結婚していたらどうなったか、考えてみたこともないけれども、(中略)結婚の口約束だけはしたものの、しかし私はこの娘に指一本ふれたわけではなかった。十四少女の『伊豆の踊子』も似たものである」と記している。
 昭和44年、71歳のとき、新潮社から刊行された「川端康成全集」第二巻のあとがきでは、初代との出来事を次のように回顧している。「大正十年のことで、私は二十三歳の学生、相手の娘は十六歳、(中略)十月八日に岐阜で結婚の約束をしてから、『非常』の手紙を受け取るまで僅かに一月、あっけなく、わけもわからずに破れたのだったが、私の心の波は強かった。幾年も尾を曳いた」

(右)「南方の火」所載
(左)「新恩潮」大正12年9月再刊第1号

(右)「新小説」大正13年3月
(左)「文芸春秋」大正13年12月

婚約のころ(岐阜)
■納骨の日
初代はその後、別の男の人と結婚して、その最初の夫と死別。そして再婚し、その間、多くの子どもをもうけた。疎開の年から6年間、岩谷堂や水沢に住んでいたこともあった。
 生前、初代は妹のマキに「世の中は、どんなものでも勉強になるものだよ。たとえ芸者屋の子守奉公をしていても」としみじみと語っている。初代は昭和26年、東京・南砂町において46歳の若さで病没した。戒名は「初代貞観大姉」。苦労の連続の人生だったが、その風貌のように透き通るような生涯だった。
昭和47年6月、初代の三男・桜井靖朗は、夭折した二人の兄に代わって、東京本郷にある本家の菩提寺に仮埋葬してあった初代の遺骨を鎌倉霊園に納骨することにした。納骨の日の6月3日、鎌倉霊園にはものものしい雰囲気が漂っていた。いったいどういうことだろうと、納骨に訪れた初代の縁者たちが事務所に問い合わせたところ、「今日は、先ごろ亡くなった川端康成の納骨の日であり、佐藤栄作首相などの要人が鎌倉霊園に来るため、警戒態勢をしいているのだ」という返事だった。別れてから何十年もたっているというのに、その2人の納骨の日と場所がまったく同じというのは、そう滅多にある話ではない。「魂が呼び合ったのではないか」と囁く人もいたという。

「文芸時代」大正15年1月
伊豆の踊子
1.主演:田中絹代 
 監督:五所平之助 
 (1933年・松竹蒲田)
2.主演:美空ひばり
 監督:野村芳太郎
 1954年・松竹大船)
3.主演:鰐淵晴子 
 監督:川頭義郎
 (1960年・松竹大船)
4.主演:吉永小百合
 監督:西河克己
 (1963年・日活)
5.主演:内藤洋子
 監督:恩地日出夫
 (1967年・東宝)
6.主演:山口百恵
 監督:西河克己
 (1974年・ホリ・プロ)

雪国 1.主演:岸恵子監督:豊田四郎(1957年・東宝)
2.主演:岩下志麻監督:大庭秀雄(1965年・松竹大船)