■自伝的作品群の中の「ちよ物」
一度は結婚を受け入れてくれた伊藤初代との終局という体験は、川端康成の文学に影響を与えずにはおかなかった。『南方の火』『篝火』『非常』『霞』といった作品は、川端研究者から「ちよ物」と呼ばれ、伊藤初代との悲恋がモチーフになった作品だといわれている。
川端康成の小説には、『雪国』『千羽鶴』『山の音』など、名作とされる観念的に構成された作品とは、異なる自伝的要素が濃い三つの系譜がある。
 その一つは、肉親の思い出を実録的に書いた『骨拾い』『祖父』『父の名』『故園』『父母への手紙』という作品であり、これは自分の体験に、虚構を加えて仕上げた作品群である。
 二つ目は、伊藤初代との悲恋体験や人生体験で受けた深い心の傷跡をモチーフにしたもの。これらの体験でのショックは、川端文学の本質に関わっており、諦観的なものの見方に変化する転機となった。三つ目は「少年」など同性愛経験に基づく作品である。
 川端康成自身は「モデルのある作品は好きではなく、創作技法としてはとらない」と言っている。確かに昭和10年から12年かけて完成させた『雪国』を契機に作品世界を再構築する方向へ向かったが、その言葉とは逆に三つの自伝的作品の流れがあったことは明らかだ。
 自伝的作品の中でも、「ちよ物」といわれる小説や初期の作品ほど、自伝的要素が濃くなっている。このうち『篝火』は、初代との恋愛がかなり色濃く反映された作品である。
 残念ながら、川端作品の中に、特に江刺を舞台にしたというものは見当たらない。その後、二人はそれぞれに家庭を持つことになったのだから、江刺が小説に出てきたのでは、いろいろ支障があるということだったのかもしれない。

【篝火】
そして、今、私の前に着疲れた単衣で座っているみち子が、この二十日ばかり私の空想の中に住んでいたみち子なのであろうか、この現実と何の関係もなかったかのような空想から一時に覚めた軽い驚きで、私はみち子を見た。小さく笑っているのは、いかにもみち子である。いたづらに疲らせる空想から放たれてほっと安らいだ心持が私にある。そして、この小娘が美しいか美しくないかの判断を私は失ってしまった。しかし、最初の一目に、みち子の顔はその欠点ばかりがぱっと大きく見えた。この顔かしら。それに、まだ子どもなんだ。腰が小さいので、坐っている膝が不自然に長く伸びて見える。この子供と結婚と、この二つを一つに結ぶのはおかしい。さっきの女学生よりずっとずっと子供なんだ。
「新小説 」大正13年3月号掲載

【南方の火】
時雄の外に学校友だち三人だった。弓子の父の戸籍謄本を貰おうとすると、役場員が皆窓口に立って来て、けげんそうに時雄達を眺めた。
 父の源吉は小学校の小使だとここで分かった。学校は役場の直ぐ隣だった。土曜日で教員室に一人残っていた女教師が大学生四人の気負い気味の様子に驚いたらしく、固くなってものも言えなかった。お茶を持ってきた子使を紹介しておいて席を外した。
「外でもないのですが、あなたのお嬢さんの弓子さんにこの頃何か変わったことがないでしょうか。」と、変な風に学生の一人が切り出した。小使はひどく驚いた早口だった。
「はあ。実は気でもちがったんじゃないかと心配して居ります。四五日前に突然国へ帰るから金を送れと言って参りまして…。」
「はあ。」と学生がうなづいた。
「僕たちはそのことでいろいろお話したくて参ったのですが。」
 そして小使を宿屋へ誘い出して来て、時雄が弓子と婚約をした、それを承諾してくれと、四人がかりで説き伏せようとした。小使は出された料理に箸をつけもせずに、一口でもたべればことわれなくなると思ったかのように、両手をきちんと膝に置いて黙り通していた。
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 しかし時雄達の汽車の時間が近づくと弓子は力なげにこんなことを言った。
「この間から日本地図がほしいんですけれど、家へ幾ら頼んでも買ってくれないんですの。」
「日本地図?そんなものをどうするの。」
「地図を見て逃げ出すだろうって、うちで言うんですもの。」と弓子はこともなげに笑った。時雄がふと思いあたったように言った。
「君の生まれた岩手県がどのへんにあるか見るんだね。」
 弓子は恥ずかしそうに笑っていた。
「中外商業新報」昭和2年8月13日から12月24日「海の火祭り」の『鮎』(10月9日〜10月29日)改稿
※『篝火』は新潮社の川端康成全集第一巻、『南方の火』は第二巻に収録されている。

【処女作の祟り】
一二年後に、僕は新しい少女に恋をした。彼女は佐山ちよ子、ところが、彼女と結婚の約束をした二月ばかりの間に不吉な天変地異が続々と現れた。結婚しようと言いに行く僕の汽車が人を轢き殺した。その前彼女と会った長良川岸の宿が暴風雨に二階を吹き破られて休業していた。「私と同い年で私のような身の上の娘さんがこの間ここから飛び込んで死にました。」と、ちよ子は長良橋の欄干から川を覗き込んだ。その帰り、毒薬に近い催眠剤のために僕は東京駅の石段から転げ落ちた。彼女の父の承諾を得ようと東北の町へ行くと、その町始まって以来の腸チブスの恐ろしい流行で小学校は休んでいた。上野駅に帰ると、原敬が暗殺された号外だった。原敬の夫人の生れ故郷はちよ子の父の町だ。
「文芸春秋」昭和2年5月号掲載
※『処女作の祟り』は講談社文芸文庫『伊豆の踊子│骨拾い』に収録されている。


■その後の川端康成の足跡
川端康成は、大正末期から昭和初期にかけて、横光利一らとともに、新感覚派の理論的、実践的支柱として活躍した。後に『日輪』『機械』という日本文学史上に輝く名作を発表した横光利一は、明治31年(1898)、福島県北会津郡の生まれ。川端は『文藝春秋』の創始者で作家の菊池寛を介して、大正10年、横光と知り合った。
 新感覚派とは、近代芸術派初期の文学流派のこと。大正13年10月創刊の同人雑誌『文芸時代』を舞台の中心とした文芸運動であった。川端と横光は、片岡鉄兵、中河与一らとともに『文芸時代』を主な舞台として、新感覚派の文学運動を始めた。
 新感覚派は、さまざまな傾向の新人が集まり、新しい時代の新しい文芸を創造を目指して成立。西洋文学の知性を日本文学の上に習熟した功績が大きい。
 初期には、川端とともに岩谷堂を訪れた鈴木彦次郎、石浜金作も加わっていた。
 その横光利一は昭和22年に亡くなり、新感覚派では、川端康成だけが戦後も精力的な活動を続けた。川端の戦後作品としては『千羽鶴』(昭和27年)、『山の音』(昭和29年)、『みづうみ』(昭和30年)、『眠れる美女』(昭和36年)などがある。
川端は昭和28年から芸術院会員となり、昭和43年(1968)には、日本人で初めてノーベル文学賞を受賞した。
(文中・敬称略)

ノーベル賞授賞式 昭和43年12月10日 ストックホルムのコンサートホールにて