-遠藤寿一郎-
及川家の系譜
 及川家は本家(及直)九代目及川幸太郎・キセの次男直康(号・窟堂)が先祖であり、本家及川家の祖先は葛西家の家臣笈川左馬之輔(文祿3年生れ)である。左馬之輔の年代を遡ると約404年前に生れた人である。及川の及は左馬之輔の時代は竹冠のある笈であって何時の頃からか現在の及川に変っている。
 笈川左馬之輔は葛西家の家臣であったが、後、岩谷堂伊達家に仕えていたから歴とした武士の家柄である。九代目幸太郎は現在の「明治記念館」の前身「共立病院」の医師であったためか、直康(窟堂)を医者にしたかった様だが直康はそれを嫌い分家して画家・書家の道にすすみ、筆と家紋業で生計を建てていたようである。             窟堂は同町初代菅原権五郎長女「ヨシヘ」と結婚、二男、二女を設け、一(豪鳳)はその長男である。豪鳳は父窟堂が南画を能くし書道にも造詣が深かったためか、日本画を志し、大正3年(1914)に上京し川端画学校に入学。卒業と同時に家庭の事情で岩谷堂に戻り、南町、半沢染物店の長女・チヨと大正10年(1921)結婚し、二男二女を設けた。長男・隆夫(岩手師範学校卒業)が出征・戦死ということもあり、長女・さち子と増沢、菅原モモノの三男・利臣と養子縁組をし昭和22年(1947)6月6日結婚する。
 また、次男勇次郎は胆沢郡前沢町絹川家へ、長女・喜代乃は六日町福島家へ、二女・喜久代は川原町菊地家へ入籍している。利臣はデザイナーとして全国各地の市町村章や国民的行事のシンボルマークなど数々の作品が採用され、書を含めて豪鳳の跡取りとして大きな足跡を残している。
 利臣・さち子夫妻は、一男一女を設け、長男・利春は現在盛岡でグラフィックデザイナーとして活躍している。また利春妻・幸枝は水沢市佐倉河松堂の及川家から迎え入れ、長女・あけみは藤里山生田、菊池康に嫁いでいる。
 それにしても、窟堂を初代とした及川家四代はまさに芸術家四代ともいえる見事な系譜を示していると言わざるを得ない。ちなみに、あけみの二女・千春も秋田公立芸術短大を卒業。現在奥州市江刺区内の印刷会社に勤務している。及川を名乗らぬまでも、血筋をつなぐ五代目として将来が楽しみである。参考までに右下の写真は何かの行事で集まったときのものと思われるが、後列左から3番目が窟堂で、左端が現及直家当主直也氏の父・直(医師)氏、後から2列目左から3番目が窟堂の妻ヨシヘ、5番目が母キセ、最前列右から2番目が豪鳳である。

窟堂・豪鳳の親族集合写真

改装前の及川本家(旧及直医院)