及川窟堂
窟堂は南画(南宗画ともいう。中国二大流派のひとつ、絵は気韻を尚び多く胸中の山水を描くことを目的としている。水墨画、淡彩画によって、柔軟な表現で主観的写実を特色とする。作家には文人・学者が多く、わが国には江戸中期から入り、文人画ともよばれている―広辞苑より)をよく描き、書にもその才能を表わしている。
 医者の二男であったから、父は医者にしたかったようだったが、窟堂は、絵・書に自らの才能を感じ、その道に入ったのである。(ちなみに雅号の窟は岩屋の意味で、堂と合わせて「岩谷堂」を表した)。生前の豪鳳の言によれば、身近に特定の師とてなく、諸方から訪れる文人墨客と交流を持ち、そうした人々やもたらされる資料から多くを学んだようで、ほとんど独学に近かったようであるが、残された遺品から、乏しい資料に食らいつくようにして、孤独な努力を続けたであろうことが忍ばれる。
 しかし当時としてはこれでもって生計を維持することは難しく、本家の近くに土地をもらい、家を建て家紋業を営みながら、絵や書の制作を続けた。ただ、残念なことは窟堂の作品は豪鳳のそれに比べて数が少ないことである。これは、窟堂が慶応2年1月に生れ、大正5年(1916)9月に50年の生涯を終えたのであるから、豪鳳に比べて25年もその生涯が短かったためとも思われるが、どなたかご存知でしたら、中町及川利臣までお知らせいただければ幸甚である。

窟堂妻ヨシヘ

及川窟堂

窟堂の実家の母・キセ

窟堂・豪鳳二代にわたって家紋を描く時に使った道具。この道具は館内に展示しているのでご覧いただきたい。

窟堂筆「山水図」(襖絵・及川家蔵)

(右・中央)窟堂筆「亀図」(墨絵・軸装・及川家蔵) (左)窟堂筆「髑髏図」(墨絵・及川家蔵)

窟堂「山水図」習作
  (4点とも墨絵・小品・及川家蔵)

窟堂筆「白澤図」
(軸装・及川家蔵)

若い頃の窟堂

窟堂写筆「及川系図記録」
本家に遺されていた原本を窟堂が書き写したもの。この系図記録が、昭和50年に見つかったことにより、旧共立病院(現明治記念館)設立の背景が明らかになり、保存登録に向けての申請に拍車がかかったということが当時の新聞に紹介されている。