小牧正英氏は、昭和21年(1946年)、日本で初めて「白鳥の湖」を全幕上演したバレエダンサーであり、日本において本格的なバレエを始めたパイオニアである。その高い表現力に支えられた芸術性と躍動感あふれる踊りは、まさに「天才ダンサー」と呼ぶにふさわしいものであった。日本におけるバレエの歴史は、小牧正英氏の活動なくして語ることはできない。
 小牧正英氏は、平成14年で92歳になられた。今も東京港区の白金で元気に暮らされている。(以後、敬称略)

岩谷堂尋常高等小学校の卒業アルバム。
2列目、右から4人目が小牧
◆─岩谷堂・銭町に生まれる
小牧正英は、明治44年(1911)9月25日、岩手県江刺郡岩谷堂町の銭鋳町(現・奥州市江刺区銭町)で、父榮松、母みよしの第2子、7人きょうだいの長男として生まれた。本名は菊池榮一。「小牧正英」(こまき・まさひで)は、上海在住時代につけた芸名である。生家は、菊榮商店といい、味噌・醤油・酢の製造販売業を営んでいた。幼少の頃は、岩谷堂にあったメソジスト教会系の幼稚園に入園し、賛美歌に親しんでいた。この頃の遊び場は、家の近くにある愛宕神社の境内。気性は、幼い頃から負けず嫌いであったという。
 大正7年(1918)、岩谷堂尋常小学校に入学。この頃から抜群の運動神経を見せ、運動会のかけっこは、いつも1等賞をとった。ひいでていたのは運動能力だけではない。小学校の絵画コンクールで入賞し、この頃から一人で絵を描くことが多くなった。絵画は、その後、一度は画家を志すほどの才能を発揮し、生涯の趣味となった。14歳の春、高等科の卒業をひかえていた。だが、長男であるのにもかかわらず、家業を継ぐ気は起こらなかった。

◆─東京からハルピンへ
昭和3年(1928)、16歳で上京し、創立間もない目白商業学校に進学する。学生時代は、子供の頃から好きだった絵画の道にあこがれを持つ一方で、芸人にも関心を抱いていたという。そんなある日、ロシア舞踊について、図をふんだんに入れて紹介した本に出会う。この本に感動して画家を志し、パリに行こうと考えた。パリに行きたいという思いは日に日に強くなり、ついに実行に移される。大陸の満州に渡り、さらに鉄道でパリに渡ろうとしたが果たせず、ハルピンに留まった。だが、ハルピンに残ったおかげで、ハルピン市音楽バレエ学校を知ることとなる。この学校はロシア人しか入学が許可されない学校だったが、昭和9年(1934)、特例のテストに合格して同校バレエ科に入学が許可された。

小学校時代の同級生と。後列右側が小牧。目白商業学校時代

◆─ロシアン・バレエ団に入団
ハルピン市音楽バレエ学校では、キャトコフスカヤ女史のクラスに学ぶことになった。
1939年(昭和14)の卒業記念公演「胡桃割り人形」では、主役フリッツの役でモデルン劇場の初舞台を踏んだ。
1940年(昭和15)春、巡業で上海に立ち寄っていたロシアン・バレエ団(バレエ・ルッス)から招請され入団。このあと、同バレエ団の全作品に出演し、舞台経験を積んだ。昭和19年(1944)には、「ペトルウシュカ」の主役をライセアム劇場で踊り、フランスの評論家・グロスボアから、その躍動感あふれる踊りと高い技術を絶賛された。
このあとも活躍は続き、「シェヘラザード」「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「ジゼル」「エスメラルダ」「ドン・キホーテ」「イワンの馬鹿」「海賊」「火の鳥」「コッペリア」「胡桃割り人形」「イゴール公」「牧神の午後」「バラの精」「金鶏」「レ・シルフィード」「チャイコフスキー第四交響曲」「カルナヴァル」「スペイン綺想曲」「ナルシスとエホー」など数々の舞台で、主要な役柄を踊った。

配役として最後に演じた「白鳥の湖」の舞台(左前)、
右は2代目団長の菊池唯夫(昭和29年頃)



「シェヘラザード」日本初演の舞台。
ゾベイダ役は谷桃子(昭和21年)

ノラ・ケイと共演した「白鳥の湖」(バレエ・ルッス時代)
◆─戦後まもない日本で「白鳥の湖」を初演
名作の舞台を次々と踏み、さまざまな体験をしながらバレエを学んでいるさなか、戦争が勃発した。世の中全部が混乱に陥った。戦後まもなくの昭和21年(1946)4月、幾度もの危機を乗り越えて上海より日本に引き揚げる。
 その年、東京バレエ団設立に参加。8月9日、東宝が主催し、日本で初めて「白鳥の湖」が帝国劇場で全幕上演された。小牧は、その演出・振付・指導のすべてを行い、出演もした。「白鳥の湖」は22日間にわたって公演され、空前の観客動員を記録した。この頃まで、日本では「白鳥の湖」を単に「白鳥湖」と呼んでいた。これに「の」を入れ、「白鳥の湖」としたのは、小牧正英である。なお、日本語表記する際、ストーリーをもった踊りによる舞台芸術を「バレエ」としたのも小牧である。スポーツのバレーボールとの混同を避け、区別するためであった。その後、小牧バレエ団を創設し、バレエダンサーの養成に努めながら、古典バレエの名作の数々を日本初演した。その活躍は、日本にバレエの真髄を伝え、普及させる原動力となり、日本バレエ界を短期間で世界水準にまで引き上げる重要な役割を果たした。

「火の鳥」でノラ・ケイと共演(昭和29年・日劇)

「白鳥の湖」で王子役を演じる(バレエ・ルッス時代)

【小牧氏の油絵】

油彩「スーズダリ風景」第31回一水会展佳作賞(昭和38年)(左上) と愛用のパレットと絵筆(右上)
油彩
「帆舟」(昭和37年・岩谷堂公民館蔵)
油彩
「浜辺」ハワイ・ワイキキ(岩手県立江刺病院蔵)