現在も愛宕神社(銭町)にあるモミジ
【幼き心】
私の生まれたところは東北の片田舎、岩谷堂という城下町である。そこは仙台と盛岡の中間にあり、水沢から東に約八キロ北上川を渡る。昔、藤原氏が平泉中尊寺を建てる以前の居城、豊田城から近く、戦国時代は葛西七人衆の一人、江刺兵庫頭の居城で岩谷堂城と称し、後に岩城氏の居城であったところ。
 私の家の向かい側は、お館山の丘陵があり、男石神社と愛宕神社が近くにあった。子供のころ、軍ごっこなどして、この神社を本陣にして遊んでいたところであるが、この愛宕神社の境内に樹齢往く百年をかぞえるモミジの大木があり、その幹の二メートル位の高さから、二本に分かれて股木になっていた。何かのことで母が叱る時のセリフは、いつもこうである。 「お前は、アタゴさんのモミジの股木から生まれてきたんだよ。悪いことをしたら、そこへもどしてやるぞ」と。私はそれで、寂しかったり、泣いたりした後は、なんとなくこのモミジの股木までやってきた。 「本当にオレ、この股から生まれたのかなあ」と首をかしげた。ある日の昼下がり、近所の腕白小僧共が、この母なるモミジの股によじ上り、小刀で皮を削っているのを見つけ、私の怒りは爆発して、夢中になって引きずり降ろしてやった。嗚呼、アタゴさんのモミジの股木よ。永遠に健在なれ。オレ、そのうちに逢いに行くよ。
【大失敗】
幼稚園、小学校、中学校、女学校はもちろんのこと、青年団、婦人会、あるいは文化団体やそうでない団体等、ありとあらゆる文字通りの全町あげて行われた大運動会があった。
 たしかそれは、城跡にできた館山グラウンド運動場開きの記念行事であったと思う。私は中学校は東京だったので、その時は暑中休暇で帰省中であった。さて、前もって少し私のことを説明しておかなければならない。私は生まれながら運動神経に恵まれているらしく、小学生から中学卒業まで、運動会となると花形的存在で、特にかけっこは抜群に早く、長短距離いずれも得意とするところで、一位になることは決まっていた。その日の競技に私が出場したのは、一般大人の部の瓶釣りというものであった。参加選手は青年団のようで、皆張り切っていたが、私は自分の体力気力に充分自信があり、断然他を引きはなしてやる胸算段があった。「ドン」というピストルの音とともに私のスタートは速く、断然他を圧していたが、瓶釣りというやつはなかなか思うにまかせず、夢中で決勝点をめざしダッシュした。決勝点には未だ誰も着いていない。係の女学生の一人が私に旗を渡したから、当然一位であると直感したわけである。群衆は私に拍手しているようであるし、私も得意であった。さて賞品を受け取るため貴賓席の中央に行き、インギンに頭をさげて両手を差し出した。ところである。賞品役の女学校の校長先生がそこにいて曰く、「君、なんだ」だと。
 私は一位ですよ、と旗印を差し出したところが、貴賓席から爆笑がおこった。町長をはじめ、お歴々から鳴りわたる笑いではないか。しかし私の親爺もそこにいて、何とも困惑した顔をかいまみた。われは知ったのである。そして私は一目散にお館山の奥深く走り、その時の穴にでも入りたい気持ちを、いやというほど味わった。私が決勝点に到着したときは、既に瓶釣りの競技は終わり、ただ一人私がグランドの中央で瓶を釣るために無我夢中になって、他の人たちは既に終わり、それに気づかずにいたという次第である。その日の私は、夜遅くまで、お館山の頂上の天守閣のあったところで、ひしひしと寂しさを感じながら、天を仰ぎ孤独を味わった。その夜も月光がつめたく輝き、美しかった。
現在の館山グラウンド運動場(現在は岩谷堂高等学校のグラウンド)

【小牧正英氏の著書】

『バレエへの招待』日本放送出版協会
(昭和55年3月10日)

『ペトルウシュカの独白』三恵書房(昭和50年6月10日)
  ※日本図書館協会選定図書

舞踏家の汗の中から『晴れた空に…』
未来社(昭和59年1月10日)

『バレエと私の戦後史』毎日新聞社
(昭和52年11月30日)

『劇場芸術への道』〜オペラ・バレエ・演劇を志す人のために〜
 未来社(昭和59年1月10日)

『ペトルシュカの独自』 より
■現職
小牧バレエ団 名誉会長
日本バレエ協会 顧問
日ロ交流協会 常任理事
日本美術家連盟 一水会会員(会員佳作賞) 1963
全日本学士会 特別会員 1968〜
韓国国際文化協会 名誉会員 1977〜
東亜日報芸術顧問(韓国) 1983〜
日ロ音楽家協会 運営委員(創立発起人) 1984〜
近代舞台芸術研究所代表 1986〜